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さて、本書には『音楽嗜好症(ミユージコフイリア)』というタイトルどおり、音楽に関係する不思議な精神的症例が数多く登場する。2010年に単行本で発売された当初は2500円という価格だったため、古くからのオリヴァー・サックス・のファンや脳神経医学に興味のある読者には大いに評価されたが、音楽好きの若い読者にとってはハードルが高かったかもしれない。今回の文庫化を待ち望んでいた人は多かったであろう。じつに素晴らしい医学エッセイなのだ。

最初に登場するのは、幸運にも落雷から生還した42歳の整形外科医の物語だ。ある日、電話線を伝わってきた雷がこの医師の顔面を直撃した。しかし、医学的な検査の結果は問題なく、2週間後には仕事に復帰したという。この直後から医師は激しい音楽の波に飲み込まれる。突然、ピアノ音楽を聞きたくてたまらなくなったのだ。まずはショパンなどのレコードを買い集めた。そして、ほとんど楽譜も読めないのにピアノの練習をはじめる。

雷に打たれてから3カ月後には音楽以外のことに時間を使わなくなっていた。ついにはプロと共演するコンサートデビューを果たし、ピアノ曲を作曲して喝采を浴びてしまう。音楽の才能とは先天的・後天的を問わず天賦のものなのかとつくづく考えさせられる一篇でもある。